語りの灯火

断ち切れぬ糸

第一章: 交差する糸

光一は、長年の仕事のストレスから疲れ果て、心の中で何かが切れたような感覚を覚えていた。家族も、友人も、誰も彼を理解できない。生きる意味を見失いかけていたその時、彼の前に現れたのは未希という若い女性だった。彼女は、静かなカフェで本を読んでいたが、突然、彼が落とした財布を拾ってくれたのだ。 「ありがとうございます」と光一は礼を言うが、未希は不思議そうな顔をして言った。「あなた、どこかで見たことありますか？」 その一言がきっかけで、二人の会話が始まった。未希は、学生時代に落ち込んでいた時に、光一が講義で話していたことを覚えていたという。かつては教員として知られていたが、今ではただのサラリーマンに過ぎない彼。未希は、そんな光一に対して不思議な安心感を抱いていた。 「本当にお会いしたことがあるんですね」と未希が微笑んだ。その言葉が、光一の心にひとしずくの温かさを残した。しかし、光一は戸惑っていた。未希の存在に、どこか懐かしさを感じると同時に、彼女がただの偶然の出会いでないような、奇妙な直感があった。 二人はカフェで一緒にお茶を飲みながら、少しずつ会話を交わしていった。未希は、光一がかつて教員として活動していたことを、彼の学生時代の友人から聞いたことがあるという。彼女がまだ子供の頃、光一が教えていた大学の講義を受けていたわけではないが、彼の教え子たちの間では、光一の人柄や授業の内容が話題になることがあったらしい。 光一は、未希が話すその内容を、どこか遠い世界の出来事のように感じた。自分があの頃、何をしていたのか、何を考えていたのか、すべてが薄れた記憶として存在していた。しかし、未希の目に宿る真摯な眼差しが、彼を引き寄せる力を持っていることは確かだった。 「実は、私は少し前に自分の進むべき道に迷っていたんです。そうして、あなたの話を聞いて、少しだけ前を向けるようになった気がします」と未希は続けた。 その言葉に、光一は驚いた。彼がもう長い間忘れていた「教師」としての役割、それが未希にとっては心の支えになっていたことを知り、心が軽くなるような気がした。無理に過去を振り返らなくても、未希のような若い人々が、あの頃の自分の教えを必要としていたという事実に、彼はほっとしたのだ。 「そんなことを言ってもらえるなんて、僕も少しは役に立ったんですね」と光一は微笑みながら言った。 未希は真剣な顔をして、光一の目をじっと見つめた。「本当に。あなたの話があったからこそ、今の私がいるんです」と言った。 その言葉に、光一は心のどこかで小さな震えを感じた。それは、未希という女性が、単なる偶然の出会い以上の存在であることを、すでに感じ取っていたからだ。しかし、その感覚が何なのか、彼にははっきりとはわからなかった。心の中で絡み合う糸が、今まさに交差し始めているような、そんな気がしていた。 二人はカフェでさらに話を続け、やがて日が暮れ始めた。光一は未希と過ごす時間が、どこか自分にとって意味のあるものに思えてきた。しかし、この出会いが、どんな結末を迎えるのか、それはまだ誰にもわからなかった。糸が交差する瞬間、それが何を意味するのかを知るのは、今後の自分次第だった。 未希と別れた光一は、家路につきながら、頭の中でその日の出来事を反芻していた。彼がこの先どう進むべきか、未希が何を自分に教えてくれたのか、すべてがまだ霧の中に包まれている。しかし、彼は確かに感じていた。未希との出会いが、これからの自分の人生において、重要な意味を持つことを。

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