記憶の樹海

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SF
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プロローグ - 集合意識の時代

西暦2075年、人類はかつて夢見た完全管理社会を実現していた。すべての記憶、感情、体験は「記憶共有ネットワーク」に接続され、脳内インプラントを通じて人々は集合意識の一部となった。 このネットワークの利点は数え切れない。スキルや知識は瞬時に共有され、負の感情は「削除」することができる。孤独や痛みは過去のものとなり、人々は平穏な毎日を送っているように見えた。しかし、その便利さの裏には、個人のアイデンティティが失われていく危険が潜んでいた。 イツキは、記憶共有ネットワークを管理する技術者だった。日々膨大なデータのメンテナンスを行い、システムのエラーを修正する。それが彼の「仕事」であり、日常のすべてだった。 だが、彼の心には消えない空白があった。3年前に亡くした恋人、リナの存在だ。 リナはイツキにとって特別な存在だった。記憶共有社会の中で、彼女だけが「感情の重み」を大切にしていた。彼女はよくこう言っていた。 「記憶を共有するのは便利だけど、悲しみも苦しみも、全部消してしまったら自分が何者なのかわからなくなるよ。」 しかし、リナは不慮の事故で命を落とした。彼女の死は、イツキにとって耐え難い悲しみだった。だから彼は、ネットワークの削除機能を使い、リナの記憶を消し去ることでその痛みから逃げたのだ。 以来、イツキは平穏な日々を過ごしていたはずだった。しかし、リナを消したことで生まれた心の空白は埋まらない。彼女の笑顔、声、そして最後に交わした言葉は、今では霞むようにぼやけていた。 ある日、イツキがいつものように端末を操作していると、システムに不自然なエラーが発生した。モニターに表示されたのは、見覚えのない記憶データだった。 「これは……?」 イツキは、データを再生した。その瞬間、彼の胸が強く締めつけられた。 「イツキ……助けて……」 その声は、間違いなくリナのものだった。 しかし、それは彼自身の記憶ではなかった。リナの記憶は、彼女の死と共にネットワークから完全に消去されているはずだった。それなのに、なぜ――。 「どうしてリナの声が……」 混乱するイツキの前で、モニターが赤く点滅した。 《警告:権限外の記憶データに接触しました。即時アクセスを中止してください。》 彼はすぐにデータの出所を追跡しようと試みた。しかし、それはネットワーク内の複数のユーザーに断片的に保存されており、その記憶は一つのまとまりを持たない状態だった。 「リナの記憶が……他人の中に?」 イツキの胸に眠っていた何かが呼び覚まされた。失ったはずの記憶、彼女の言葉、そして彼自身が消した痛み。それを取り戻すため、彼はリナの記憶を追う旅に出る決意をした。 この旅が、やがて彼を記憶共有ネットワークの裏に隠された巨大な陰謀へと導くことになることを、イツキはまだ知らなかった――。


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