執筆の果てに

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官能小説
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執筆の果てに

薄暗いカフェの片隅。赤いランプシェードがテーブルをほんのりと照らし、周囲のざわめきから切り離された小さな空間を形作っていた。 麻生リナは、目の前に置かれた白い紙束を指先でなぞる。そこに刻まれているのは、彼女が1年間書き続けてきた官能小説だ。小説家としてデビューしてから3年。初めて出版される「官能」というジャンルに、彼女の心は期待と不安で揺れていた。 「これで本当に大丈夫だと思いますか?」 リナは対面に座る担当編集者の北川に問いかけた。北川は30代半ばの男性で、飄々とした雰囲気がある。彼はタバコをくわえながら、微笑みを浮かべて答えた。 「十分に面白い。官能的なシーンはもちろん、登場人物の心情描写が深くて読ませるね。特にあの、第七章のシーン……あれは見事だ」 リナの顔がかすかに赤くなる。第七章。それは彼女が書きながらも恥ずかしさと興奮を感じたシーンだった。年上の作家と新人編集者が、書店のバックヤードで激しい情熱を交わす描写。読者がその情景に没入するようにと、彼女は細部にまでこだわった。 「でも……官能小説なんて、世間には偏見がありますよね。それが私の名前で出版されるとなると……」 リナの指先が紙の端を無意識に折る。官能小説が世間にどう受け入れられるのか、自身の名を出すリスク。彼女にはそれが怖かった。 「リナさん。」北川が真剣な表情に変わり、身を乗り出す。「いい作品だと信じるなら、それがすべてだ。他人の評価に怯えていては、書きたいものなんて書けなくなる。君はどうしたい?」 リナは黙り込んだ。彼女が筆を取る理由。それは、心の奥底にある欲望を文字に変えることだった。その欲望は、かつて愛した人に届かなかった想いから来ている。書くことで癒されるような、または忘れられないようにする儀式のようなものだった。 そのとき、リナのスマートフォンが振動した。画面には一通のメールが表示されている。それは、彼女が初めて憧れを抱いた大御所作家・藤崎薫からの返信だった。 リナは、手に汗をにじませながらメールを開いた。 「麻生リナ様、初めまして。あなたの原稿、拝見しました。」 そこから続く文面は驚くほど簡潔だったが、その一言一言が彼女の心に深く刻まれる。藤崎薫――現代文学の巨匠として知られる彼の言葉を目にするだけで、リナの胸の奥で緊張が痛みに変わる。 「率直に言います。あなたの文章には熱がある。ただ、その熱はまだ曖昧で、焦点が定まっていないように思えます。特に、第七章。あなたが書こうとした“情熱”はどこから来るのか、それをもっと掘り下げるべきです。それが作品の核となるはずです。」 リナは一瞬、息を止めた。彼が指摘したのはまさに、彼女が最も向き合うのを恐れていた部分だった。 第七章に込めた「情熱」 リナが第七章を書いていたとき、ある記憶が何度も彼女の頭をよぎった。それは、大学時代の彼――志村透との思い出だ。彼は文学部の先輩で、リナにとって初めて自分の言葉を褒めてくれた人だった。彼との短い恋は、まるで小説のように儚く、けれど鮮烈だった。 夜の図書館。誰もいない書架の陰で、透が彼女のノートを手に取り、小声で言った言葉をリナは覚えている。 「お前、言葉が生きてるな。特に人の“欲望”を書くのがうまいよ。」 その瞬間、透の手が彼女の頬に触れ、次第に唇へと――。 リナは慌ててその記憶を振り払った。彼との関係は、彼が突然の留学で姿を消したことで終わりを告げた。連絡先も知らないまま、彼は彼女の人生からいなくなった。 だが、その時初めて知った「欲望」という感情が、彼女の筆を走らせる原動力になったのは間違いなかった。そして第七章は、無意識にその記憶を基にして書かれていた。 藤崎薫との対話 翌日、リナは藤崎薫が指定したカフェを訪れた。都心の高層ビルの最上階にあるその場所は、シンプルな内装ながら品の良さを感じさせる。 待ち合わせの時間ぴったりに現れた薫は、リナが想像していたよりも親しみやすい雰囲気を持っていた。鋭い目つきではあるが、その奥には温かさがある。 「どうも。藤崎薫です。」 静かに手を差し出すその動作には、どこか演劇的な洗練さを感じた。 「お忙しいところ、ありがとうございます。」リナは深く頭を下げた。 「いや、君の原稿を読んで気になったことがいくつかあってね。」 薫は短く笑みを浮かべ、テーブルにリナの原稿を置いた。すでに赤ペンでびっしりと書き込まれている。 「第七章についてだけど……これは君の経験が元になっているのかい?」 単刀直入な問いに、リナは戸惑いながらもうなずいた。 「ええ……でも、それはあくまで……」 「誤解しないでほしい。経験が悪いわけじゃない。ただ、その“経験”の根底にある感情にもっと向き合う必要があると思う。」 薫の視線はリナの目をまっすぐに見据えていた。 「たとえば、この場面――」 薫が指差した箇所には、「彼の熱が彼女の背中を這う」という一文がある。 「この“熱”がどこから来るのか、君自身は説明できるか?」 リナは言葉を詰まらせた。その“熱”は、単なる肉体的な欲望ではない。それは、透との未完の恋が残した埋められない虚しさであり、同時に今も彼を忘れられない自分自身への苛立ちだった。だが、それをどう言葉にするべきなのか、彼女はわからなかった。 「書くことで乗り越えろ」 「リナさん、作家にとって一番怖いのは、読者じゃない。」 薫はコーヒーカップをゆっくりと置きながら言った。 「怖いのは、自分が書きたいものから目をそらすことだよ。」 その言葉は、彼女の胸に重く響いた。リナは自分が第七章を書くことで、透との記憶にどうにか折り合いをつけようとしていたことを初めて自覚した。そしてそれは、まだ完全に書き切れていないのだと。 「この作品が世に出たとき、批判する人もいるだろう。でも、書くことで自分の中の何かが少しでも解決するなら、それが本当の価値だ。」 薫の言葉には、長年作家としての葛藤を抱えてきた者だけが持つ深みがあった。 新たな執筆の始まり リナはその夜、再び机に向かった。 透との記憶。それに基づく第七章を、ただ表面的な描写だけでなく、その奥にある自分自身の感情を真正面から掘り下げようと決意した。 彼女のペンは静かに動き出した。透との記憶が一枚ずつ剥がされるように、真実の「情熱」が形作られていく。そして、それはただの官能小説ではなく、彼女の心そのものを表現する作品へと変わりつつあった。 その瞬間、彼女は初めて「作家」としての自分に自信を持ち始めていた。


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