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SF著者:
語りの灯火
「記憶、買い取ります」
駅前の雑居ビルの一角。ボロボロの看板に書かれたその言葉が、俺の足を止めた。
夜の街を彷徨っていた理由は、一つしかない。
あいつを忘れたい。
彼女と過ごした時間。
笑った顔、涙、声、肌の温もり……すべてが焼き付いて離れない。
「忘れられるなら、いくらでも払う。」
扉を押し開けると、薄暗い店内には誰もいない。
奥のカウンターに立つのは、白髪混じりの細身の男。
「いらっしゃいませ」
低い声が、静かに響いた。
「本当に、記憶を消せるんですか?」
「ええ、完全に。」
男はカウンター越しに小さな書類を差し出した。
「この契約書にサインしてください」
ざっと目を通す。
売った記憶は完全に消去され、二度と思い出せない。
買い戻すことは不可能。
「価格は、記憶の価値次第です。」
男が指を鳴らすと、目の前に液晶パネルが浮かび上がった。
そこには、俺の過去の映像が映し出されていた。
彼女と初めて会った日。
手を繋いで歩いた夜の公園。
「ずっと一緒にいよう」
彼女が微笑んでいる。
「……この記憶は、高額ですね。」
男が言った。
「売ります」
「いいんですね?」
男がスイッチを押すと、頭に電流が流れたような感覚が走った。
視界が揺らぎ、意識が遠のく――。
気がつくと、俺は路地裏に立っていた。
「……?」
何かを忘れた気がする。
でも、何を?
手のひらに紙が握られていた。
「記憶、買い取ります」
店の住所が書かれている。
俺は思わず店の方へと駆け出した。
だが――
そのビルには、何もなかった。
あの店があったはずの場所には、ただのコンクリートの壁が広がっている。
「……おかしいな」
混乱する俺の背後から、声が聞こえた。
「お客さん、ようこそ」
振り向くと、あの男が立っていた。
だが、さっきと様子が違う。
黒いスーツに、金縁の眼鏡。
「……お前は?」
男は薄く微笑んだ。
「あなたはもう"記憶を売る側"ではありませんよ」
「――"記憶を買う側"になったんです」
ふと、俺の腕に黒いブレスレットがついているのに気づいた。
液晶画面には、数字が浮かんでいる。
「3,467,892」
「これが……何だ?」
「あなたの記憶ポイントです。これで、新しい記憶を買うことができます」
「買う?」
「ええ、他人の記憶を。」
男が指を鳴らすと、目の前に映像が浮かび上がった。
そこには、知らない男の人生が映し出されていた。
彼の幼少期。
彼の初恋。
彼が見た美しい風景。
「さて、どれにしますか?」
俺は、何者だった?
なぜここにいる?
何を忘れた?
答えは、どこにもない。
記憶を売ることの意味を、俺は知ることはできない。
なぜなら――
俺はすでに、何度も記憶を売っているのだから。
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