ジャンル:
日常著者:
語りの灯火
第一章:小さな揺れと謎のボール
2月下旬の空はまだ冷たく、小さな町の路地に灰色の雲が漂っていた。美咲はカフェのカウンターを拭きながら、息子の翔太が宿題をしている姿をちらりと見た。7歳の翔太はノートに鉛筆を走らせながら、時折「大谷選手ならこんな問題すぐ解けるかな」と呟く。大谷翔平は彼のヒーローだった。
その日、閉店間際に異変が起きた。客の去ったテーブルに、古びた野球ボールがぽつんと置かれていたのだ。埃っぽい表面に、かすれた文字で「To Shohei, 2011」と書かれている。美咲は首をかしげた。「誰かが忘れたのかな?」と呟きつつ、ボールをカウンターに置いた。
夜、地鳴りのような音と共に小さな地震が町を揺らした。電気が消え、カフェは暗闇に包まれた。「ママ!」翔太が叫び、美咲の手を握る。「大丈夫だよ、すぐ収まるから」と抱き寄せた瞬間、翔太が目を丸くした。「ママ、このボール、動いてる!」
懐中電灯で照らすと、確かにボールが微かに震えているように見えた。地震が収まると同時に動きは止まり、美咲は「気のせいだよ」と笑ったが、心の奥に小さな違和感が残った。
第二章:過去の影とバレンタインの残り香
翌朝、美咲はボールの謎を解こうと動き出した。近所の古老、田中さんに話を聞くと、彼は目を細めて言った。「2011年か…あの大震災の年だね。この町にも被災した子がいたよ。野球が好きで、大谷翔平に憧れてた少年だったかな。家族と一緒に引っ越したって聞いてたけど…」
手がかりはそれだけだった。美咲がカフェに戻ると、翔太がボールを手に持って呟いた。「このボール、大谷選手に届けたかったのかな?」その純粋な言葉に、美咲はバレンタインに作ったチョコレートのことを思い出した。翔太と一緒に溶かしたチョコを丸めて笑い合ったあの時間。結局、誰かに渡すことはなかった。
その夜、翔太が奇妙な夢を見たと言い出した。「知らない男の子が『チョコレートを渡して』って言ってきたんだ。僕、怖かったけど、なんか悲しそうだった」。美咲は不安を感じつつも、「夢だからね」と慰めた。しかし、次の地震が起きた時、彼女は思い切って行動に出た。バレンタインの残りのチョコをボールの横に置いてみたのだ。
揺れが収まった瞬間、チョコが消えていた。代わりに、古い紙切れがテーブルに落ちている。震える手で拾うと、そこにはこう書かれていた。「ありがとう。もう大丈夫。翔太くん、大谷選手みたいに強くなってね」。子供っぽい筆跡だったが、どこか懐かしさが漂っていた。
第三章:揺れる町と絆の力
その日から地震の頻度が増した。町の人々は不安を隠せず、美咲のカフェにも近隣住民が集まり始めた。翔太はボールを握りながら、「大谷選手が助けに来てくれる気がする」と言い続けていた。美咲は息子の言葉に励まされつつも、手紙の少年が誰なのか、何を伝えたかったのかを考え続けた。
そして、2月最後の夜、大きな地震が町を襲った。カフェの窓が震え、棚からカップが落ちる。美咲は翔太を抱きかかえ、集まった人々と共に机の下に身を寄せた。「大丈夫、みんな一緒だから」と声をかけ合う中、翔太が小さな声で呟いた。「ありがとう、誰か分からないけど…守ってくれてるよね」
揺れが収まり、朝日が差し込む頃、ボールと手紙は跡形もなく消えていた。町は傷つきながらも生き残り、人々は助け合って片付けを始めた。翔太は「あれ、大谷選手が守ってくれたんだよ」と笑い、美咲はその笑顔に涙をこぼした。過去の誰かが、確かにここにいたのだと。
終章:春の兆し
3月が近づき、カフェに新しいメニューが加わった。「翔太のチョコボール」。小さなチョコを丸めたシンプルな菓子は、町の人々にささやかな温かさを届けた。テレビでは大谷翔平が春季キャンプでホームランを打つ姿が流れ、翔太は目を輝かせて言った。「次は僕が打つ番だ!」
美咲はカウンターに立ち、窓の外に広がる春の気配を見つめた。揺れ動く日々の中で、過去と今が交錯し、未来への小さな希望が生まれた瞬間だった。