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ファンタジーはじめてウタと会ったのは、街はずれにある小さな泉の手洗い場だった。夕暮れの風が埃まじりに吹きつけるなか、わたし――アミはぼんやりと水面を見つめていた。ささやかな水流に手を浸し、指先から腕まで丁寧に洗う。肌を覆う水の冷たさが、どこか遠い世界の出来事を思い出させるようで、その場を離れられなかったのだ。 ふと何かが光った。泉の水面に小さな泡がひとつ、ふわりと浮かんでいる。まるで意思をもった生き物のように、ゆらりと揺れるその泡を、わたしは言いようのない懐かしさを感じながら見つめた。 「やあ、きみはいつもここで手を洗っているね」 不意に聞こえた声に、わたしは驚いて泡を見直す。だが周囲には誰もいない。そっと耳をすませば、どうやら声は泡のほうから聞こえているらしい。 「ぼくはウタ。この国を流れる泡の精霊だよ。きみのように真剣に手を洗う子は久しぶりに見た」 呆然とするわたしに、ウタは楽しげに弾むような声で続けた。 「きみはなぜ毎日、こんなに丁寧に手を洗うの?」 「理由なんて……たぶん、昔からの習慣。母に厳しくしつけられたのが残ってるのかもしれない」 そう言いながら、わたしの脳裏に母の面影がよぎる。手洗いを教えてくれた優しい母。だが、いつの頃からか人々は手を洗わなくなり、その意味も忘れてしまった。外で遊んできても、むしろ手を洗うわたしを奇妙なもの扱いする空気が広がっていた。 「だけどね、ウタ。最近、街が妙にざわついてる。空気が重くて、みんなピリピリしてる。何か悪いことが起きてるって、そんな気がするの」 泡はわずかに揺らぎ、まるで深くうなずくようだった。 「そうか。やはり穢(けが)れが増えているんだね。もともと手洗いは、目には見えない穢れを清めるための儀式でもあった。人々がその大切さを忘れると、やがて穢れは街を蝕(むしば)んでいく。そしてあるとき、誰もが気づかないうちに世界を覆ってしまうんだ」 「穢れ……それが原因で、最近こんなに息苦しいの?」 「かもしれないね。ぼくは泡に宿る記憶を辿って、街の人たちに手洗いの誓いを思い出してもらおうと思っている。でも、ぼくひとりじゃこの広い街には届かない。アミ、きみは協力してくれる?」 「わたしが……?」 ウタはふわりと宙を舞い、わたしの目の前に来た。泡の表面は虹色に光り、その奥には見慣れない街の情景が一瞬映し出される。そこには人々が楽しそうに手を洗う姿があった。みんな笑い合いながら泡を生み、子供ははしゃぎ、大人は心なしか穏やかな顔をしている。 「この世界にあったはずの風景なんだ。けれど今はほとんど失われてしまった。僕らはこの“泡沫の約束”を取り戻すため、旅に出なくちゃいけない」 そう言ったウタの声は不思議なほど説得力があり、わたしの心を揺さぶる。なぜだろう、自然と“やらなくちゃ”という気持ちが湧き上がるのだ。目を伏せると、わたしの指先はまだ冷たい水滴に濡れていた。 「……いいよ、協力する。誰もがちゃんと手を洗って、世界を穢れから守っていた頃の記憶を取り戻したい。わたしができることがあるなら、やってみたい」 そう答えると、ウタはぱあっと弾けるように輝いてみせた。 「ありがとう! じゃあ、まずは街の広場から行ってみよう。そこにいる人たちに手洗いの意味を思い出してもらおうよ」 わたしは濡れた手を拭くのも忘れたまま、ウタのあとを追い始める。泉の裏手にある小道を抜けると、視界が一気に開け、石畳の広場が広がっていた。昔はここで市場が開かれていたと聞くが、今では人通りもまばらだ。吹きつける冷たい風のなか、人々は心なしか苛立った表情を浮かべている。 「ここに手洗い場があるんだけど、ほとんど使われていないみたい」 ウタが広場の片隅を示す。その場所には、小さな水の吐出口だけが錆びて固まっていた。かつては多くの人が利用したであろう立派な設備も、今や誰の目にも留まっていない。 「声をかけてみようか」 そう言って、わたしは近くを通る青年に声をかけた。せめて手を洗わないか、と。だが、彼はきっぱりと言った。 「手洗いなんか面倒だし、そんな時間もない。いちいちやってられるかよ」 その横を通る女性は、わたしのほうを白けた目で見て軽く鼻を鳴らした。たしかに、今のこの世界では手洗いを呼びかけるなんて奇妙に映るのかもしれない。それでも、わたしはあきらめたくなかった。なぜだろう。もし大切なものを取り戻せば、あの頃のように優しい世界になると、心のどこかで信じていたから。 「……やっぱり、時間がかかりそうだね」 少し肩を落としたわたしに、ウタはそっと寄り添ってくる。 「大丈夫。こうして呼びかけを続けていれば、きっと思い出す人も出てくるよ。それに、手を洗う行為って単なるルールや作法じゃない。そこには“だれかを大切に思う気持ち”があるんだ。アミが母親から教わったように、優しい気持ちが伝わるときがきっと来る」 広場からは冷たい風が吹いてくるだけで、人々の反応は厳しい。けれど、わたしは確かな決意を感じていた。ウタと共に歩む道は長いかもしれない。それでも、手洗いを思い出してもらえたとき、人々の中にある見えない穢れはきっと洗い流されるはずだ。 わたしは改めて目の前にある錆びた手洗い場に近づき、水の吐出口をそっと開く。錆びた音とともに、か細い水流がやがて広がった。まるで長い眠りから覚めたかのように、ちょろちょろと流れ出す冷たい水。その流れに手を浸しながら、わたしは一歩ずつ前に進む決意を固める。 「ただ手を洗うだけ、なのにね。不思議と勇気がわいてくるよ」 目の前の水面に浮かぶ小さな泡。それはいつのまにか増え、ウタを中心に幾重にも広がっていた。わずかながら、人々は遠巻きにこちらを見つめている。いつかきっと、この水場にあたたかな笑い声が戻ってくる――わたしはそう信じている。 泡の精霊・ウタと共に始まった旅は、今やっと小さな一歩を踏み出したところだ。消えては生まれる泡のように儚(はかな)い運命のなかで、わたしはきっと気づくだろう。手を洗う行為が“あたりまえ”だった時代の、ぬくもりに満ちた世界を取り戻すことの尊さを。そして、その中にはわたし自身の過去と未来が、きっと息づいているのだ。 透明な泡を指先でそっと弾くと、かすかな光の粒が宙を踊る。わたしはその輝きが、まだ見ぬ希望の道しるべであると信じる。穢れが街を覆うよりも先に、わたしたちは手を洗う誓いを広めなくてはならない。終わりが来る前に、人々の心をあの頃のように清らかに取り戻して――。 そんな思いを抱きながら、わたしは改めて冷たい水の流れに手を浸した。 (了)