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ホラー寒々しい山道を抜けると、突如として開けた小さな集落が見える。その名を「切火(きりひ)村」という。地図にも載らないこの村には、昔から奇妙な都市伝説が伝わっていた。曰く、夜になると「錆びた鈴の音」が聞こえ、その音を聞いた者は得体の知れない怪奇現象に遭遇するのだという。若い頃に何度か訪れたことがあるという祖母の話では、あたりを漂うかすかな鈴の響きに導かれるように、村の奥へと足を踏み入れてしまうのだとか。実際、行方不明になった旅人の噂が幾度となく囁かれていた。 僕はフリーライターとして、日本の怖い話や和風ホラーを好む読者向けに記事を書くことを生業としている。今回の取材先はまさにうってつけだった。地図にない集落、薄暗い山間、そして謎めいた音──すべてが興味をそそる。生々しい実話に近いホラー小説の題材を探していた僕は、切火村の心理的ホラーに満ちた恐怖体験を記事にするつもりだった。 村へ着く頃には日はすっかり落ち、辺りは墨を流し込んだような夜の闇に支配されていた。街灯の類はなく、手元の懐中電灯だけが頼りだ。だが、その光すら小さく揺れて、心もとない。不意に耳をつんざくほどの静寂に気づく。虫の声さえ聞こえないのだ。足元の落ち葉を踏む音がやけに大きく響き、背筋をざわつかせる。 村の入り口にある朽ちかけた鳥居をくぐると、古い木造の民家がいくつか建ち並んでいた。しかし、そのどれもが廃屋のようで、灯りはおろか人の気配すら感じられない。僕は不安を覚えながらも、一番手前にあった民家の扉を叩いた。乾いた音が何度か響くが、反応はない。少し躊躇した末、僕は手で扉を押してみた。ぎい、と鈍い音を立て、戸が開く。誰もいないが、生活の名残がはっきりと残されている。まるでほんの数時間前まで人が暮らしていたかのようだった。 その時、耳の奥にかすかに届いたのは「ちりん……」と錆びた鈴が鳴るような音。まさか本当に聞こえるとは思わず、僕は凍りついたように立ち尽くした。まるで誰かが“出迎えて”いるかのように思えてならない。あの音が鳴ると、この村には呪いが降りかかる──祖母の口からたびたび聞かされた怪談じみた伝承が、まざまざと脳裏に蘇る。 「ちりん……ちりん……」 その音は一定の間隔で響き渡り、次第に僕の鼓膜を支配する。音に引き寄せられるように民家の奥へと足を進めると、薄暗い畳の上に小さな鈴が落ちていた。錆び付いた金属の表面は、時間とともに風化したかのように赤茶けている。僕が鈴に手を伸ばすと、背後から人の声がした。 「帰ったのかい。」 振り返るが、そこには誰もいない。ただ、壁にかけられた墨絵の女性が、まるで生きているかのように微笑んでいるように見えた。血の気が引くとはまさにこのことだ。一瞬、ここを去るべきだという思いが頭をかすめる。しかし好奇心に駆られた僕は、そのまま民家の奥へと進んでしまう。 台所にはかつて人の営みを感じさせる調理器具や水桶がそのまま残されており、古い土壁には子供の落書きの跡があった。ここに家族が暮らしていた証だろう。しかし、それらが何年も放置されていたにもかかわらず、埃ひとつかぶっていない。奇妙な感覚が背後から忍び寄る。まるで誰かが“ついさっき”まで使っていたように思えてならない。再び、あの錆びた鈴の音が、どこからともなく響いた。 外に出ようと廊下を戻る途中、隣の部屋の襖が少し開いているのに気づく。隙間の向こうには薄青い着物を着た女の人影が立っている──ように見えた。しかし目を凝らすと、そこには何もいない。がらんとした部屋には、ただ古い鏡が置かれているだけだ。鏡の中には僕自身の姿のほかに、もう一つ、見知らぬ影が映っていた。 慌てて鏡から目をそらした瞬間、また「ちりん……」と鈴の音が鳴る。その音は民家の外にいるかのように遠く、どこか誘うように響いている。僕は意を決して戸口から外へ飛び出した。すると、先ほどの真っ暗な集落がまるで別世界のように淡い月明かりに照らされていた。廃屋の間を抜ける風が冷たい。誰一人いないはずの道端で、しかし確かに人影が横切った気配を感じる。 やがて、村の中心らしき広場が見えてきた。そこには古びた祠と石碑が並んでいる。石碑には風雨で掠れた文字が刻まれていたが、読める範囲でなんとか解読すると、この地に古くから伝わる祟りと、鎮魂のための儀式について記されている。そこには「錆びた鈴の主が魂を狩る。鈴の音を聞いた者は逃れられぬ──」とある。僕はその文言にぞっとする。まさに僕が体験している出来事そのものではないか。 身体を突き動かす本能的な恐怖に耐えきれず、僕は必死で村から離れようと走り出した。だが、切火村の出口がどこにも見当たらない。何度も同じ鳥居の前に戻ってきてしまう。まるで村全体が生きていて、僕を逃がすまいとしているかのようだった。あたり一面に広がる闇の向こうから、またあの音が聞こえる。 「ちりん……ちりん……」 鈴の音は、まるで村そのものの鼓動のように僕を追いかけてくる。ここから一刻も早く立ち去りたいのに、足が次第に重くなり、ついには動けなくなってしまう。膝をつき、薄れていく意識の中で最後に見たのは、暗闇から伸びる無数の手と、笑みを浮かべる女の姿だった。 それ以来、僕は帰る場所を失ったかのようにさまよい続けている。いや、もしかすると今も切火村にいるのかもしれない。外から見れば廃村のはずなのに、僕にはまだ鈴の音が聞こえるのだ──。