夜の帳に溶ける声

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官能小説
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短編小説:夜の帳に溶ける声

雨が降る音が、都会の喧騒を静かに包み込んでいた。どこか湿った匂いが漂う高級マンションの一室で、彼女は深く座り込んでいた。柔らかなレザーの質感が肌に馴染み、薄手のシルクのガウンが空調の微風にそっと揺れる。 室内は調光を抑えた間接照明の暖かな光に満ちていたが、窓の外の光景はぼんやりとした街灯に濡れるアスファルトと、行き交う車のヘッドライトだけがかすかに映り込んでいた。静寂と雨音だけが、部屋全体を支配していた。 玄関のドアが開く音がした。彼女は振り返らないまま、グラスを指先で軽く回す。琥珀色の液体が揺れる音が、雨音と調和して心地よく響いた。 「遅かったわね。」 彼女の声は湿り気を帯びた夜気の中に溶け込むように、どこか憂いを含んでいた。 ドアを閉めた男は、少し息を切らしている。黒いスーツの肩には小さな雨粒が輝き、その姿は濡れたアスファルトそのものだった。彼は乱れたネクタイを緩めながら、部屋の奥へと進む。 「悪い、会議が長引いたんだ。」 低く抑えた声が室内に響く。 彼女はその言い訳に応えることなく、無言でソファに深く腰を掛け直す。アイラインが引かれた瞳は深い夜そのもので、彼の視線を捉え、絡め取る。 「それで?」彼女は片眉を軽く上げる。「その程度の言葉だけで許してほしいと?」 彼は一瞬、困惑の表情を見せたが、すぐに微かに笑みを浮かべた。そして、彼女の前に跪く。スーツの膝頭がカーペットに触れる音が、空間の静寂を破る。 「どうすれば許してくれる?」 彼女はゆっくりとグラスをテーブルに置き、足を軽く組み替えた。その瞬間、シルクのガウンが滑り落ち、薄い布地の隙間から素肌が覗いた。彼の目は、そのわずかな動きに吸い寄せられる。 「そうね…」彼女の指先がそっと彼の顎を撫でる。「誠意を見せてもらおうかしら。」 彼は言葉を失い、ただ彼女を見上げた。 時は少し遡る。その部屋が作り出す幻想的な夜の一幕の裏には、二人だけが知る過去があった。 彼が初めて彼女と出会ったのは、四年前。都内のとあるバーでのことだった。周囲にいる誰とも違う空気をまとった彼女は、まるで他人を拒むように一人静かに飲んでいた。だがその瞳には、何かを探しているような影があった。 彼はただの好奇心から話しかけたつもりだった。しかし、その瞬間から彼女は彼の中で特別な存在となった。彼女の強がりと孤独、鋭い言葉の奥に隠された微かな脆さが、どうしようもなく彼を惹きつけたのだ。 彼女もまた、彼に惹かれていったのだろう。最初はあくまで対等な駆け引きで始まった関係だった。だが、次第に二人の距離は縮まり、互いに不可欠な存在になっていった。 しかし、彼女は時折こうして冷たく接する。「彼が自分を退屈に思ってしまうのでは」という不安を、彼女自身が認めたくないからだ。その度に彼は、無言の行動で応えることしかできなかった。 現在。 彼女は目を細めて彼を見下ろす。その瞳の中には、試すような色が混じっていた。 「言葉だけでは足りないわ。」彼女は囁くように言う。「あなたがどう思っているのか、行動で示してほしいの。」 彼はその言葉に応えるように、彼女の足首にそっと触れる。シルクのガウンの裾を指先で辿り、ゆっくりとした動きで彼女の肌に触れていく。その動きには、焦りも、迷いもなかった。 「君が望むことなら、何だってする。」 彼女の唇が微かに上がる。彼女にとって彼の言葉は、もはや儀礼のようなものだ。しかし、彼の視線や仕草から滲み出る真剣さが、彼女の心の奥底に触れる。 雨音が窓を叩く音は、次第に遠のいていくようだった。彼女の心を覆っていた薄い仮面が剥がれると同時に、彼もまた言葉を捨て、ただ目の前の彼女だけに集中していく。 彼の手は彼女の体温を感じ取りながら、少しずつ大胆になっていく。空間の静けさは、二人の心拍音と呼吸で満たされていった。 「私を満足させられるかしら?」彼女の声が微かに震えたのは、彼が彼女の内側に触れ始めていたからだろう。 「挑戦する価値はありそうだな。」 彼は低い声で答え、唇をそっと彼女の首筋に落とす。その温もりは、雨で冷えた空気を一瞬にして塗り替えるようだった。 時計の針は静かに進むが、二人だけの時間は夜の帳の中で止まっているかのようだった。やがて彼女は、すべての言葉を忘れ、ただその瞬間に身を委ねた。


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