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官能小説著者:
語りの灯火
薄暗いバーの片隅で、グラスの縁をなぞる指の感触を楽しんでいた。氷の溶ける音が、時間の流れを曖昧にする。目の前に置かれたカクテルの表面に、淡い光が反射して揺れている。 彼はグラスに手を伸ばし、添えられた紙ストローをくわえた。舌先に触れたそれは、かすかにざらついていて、ゆっくりと口の中に馴染んでいく。吸い込むたびにわずかに湿り、形を変えていくその感触が、妙に生々しい。 「紙ストローって、どう思う?」 向かいの席に座る女が、不意に問いかけた。 「ん?」 彼は一瞬、答えに詰まる。彼女の視線が、グラス越しに彼をじっと見つめていた。 「ほら、最近は環境問題とかで、どこでも紙ストローになったでしょう?」 「ああ、そうだな……正直、あまり好きじゃない」 彼女が小さく笑う。「そうよね。最初は硬いのに、時間が経つとすぐにふやけてしまう。でも……」 彼女はカクテルを一口飲み、唇をストローからそっと離した。 「それって、人の関係にも似てると思わない?」 彼は眉をひそめる。彼女の言葉の意図を測りかねたまま、再びストローを唇に運んだ。わずかに湿り気を帯びたそれは、先ほどよりも柔らかくなっていた。 「最初はお互い硬くて、形を保っている。でも、時間が経つと、少しずつ変化して、元の形には戻れなくなる……そんなところが、関係に似てるって?」 「ええ。でも、だからこそ面白いのよ」 彼女は指先でストローを転がしながら言った。 「例えばね……最初はどんなに強くても、時間が経てば、相手に合わせて変わっていく。人と人が触れ合うと、元のままではいられないの。少しずつ溶けて、混じり合って、元に戻れないほどに変わっていくのよ」 彼は思わず、彼女の唇に目を落とした。艶やかに濡れた唇が、カクテルの残り香を宿している。 「それって……悪いことなのか?」 「そうね……」 彼女は視線を伏せ、氷が溶けていくグラスを見つめた。 「人によるんじゃないかしら。変わることが怖い人もいる。でも、変わらないままでいるほうが、私は怖いかな」 彼女の指が、グラスの縁をなぞる。その動きがなぜか官能的で、彼の鼓動がわずかに早まる。 「たとえば、あなたは……どう変わっていきたい?」 彼女が静かに問いかける。 「……さあな。でも、溶けるのも悪くない気がしてきた」 彼はわざとゆっくりと、ストローをくわえた。ふやけた紙が唇に絡みつき、わずかな違和感とともに、冷たい液体が喉を滑り落ちる。 彼女の唇が微かに歪む。 「ふふ……いい答えね」 その夜、彼らは街を歩いた。湿った夜風が肌を撫で、遠くで車のクラクションが響く。 無言のまま歩きながら、彼はふと、彼女の手を取った。指先が触れた瞬間、彼女は驚いたように彼を見たが、すぐに微笑んだ。 その感触は、紙ストローのように柔らかく、けれど、確かに熱を帯びていた。 変わること。溶けること。 それが怖くないと、彼は初めて思った。 そしてその夜、二人はお互いの輪郭を、ゆっくりと溶かしていった——。