影斬り - Kagegiri

ジャンル:

時代劇
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短編小説:影斬り - Kagegiri

江戸の町も夜更けを迎え、薄闇に包まれた長屋の路地裏では、鼠が瓦の隙間をすり抜ける音だけが響いていた。提灯の火が揺らめく辻を一人の男が歩いている。裾の長い黒羽織に深く差した大小、左腰にわずかに残る血の跡。 「――影斬りか」 町人たちは彼の名をそう呼んだ。名もなき剣客、影の如く現れ、闇の中に消える男。その正体を知る者はいない。ただ、斬られた者だけが、その鋭い刃の意味を知るのだ。 その夜、男が向かったのは吉原の奥、裏長屋にあるひとつの茶屋だった。そこには、美しき遊女・凛が待っていた。 「お侍さん、また血の匂いをさせて……」 細い指が、そっと男の袖に触れる。だが、その眼差しは憂いを帯び、どこか遠い過去を見つめているようだった。 影斬りは無言のまま、懐から一枚の紙を取り出す。それは、江戸城奥の闇に潜む黒幕の名が記された密書だった。 「今宵で全てを終わらせる……」 低く囁く影斬りの瞳が鋭く光る。剣が抜かれる時、江戸の夜は血に染まる。 影斬りの本名を知る者は少ない。かつては御家人の家に生まれたが、一族は冤罪により断絶。父は切腹を命じられ、母は江戸の闇に消えた。生き残った彼は、剣の腕を磨き、ただ復讐のために生きてきた。 「今日の獲物は?」 茶屋の奥、薄闇の中で声が響く。そこに座っていたのは、裏稼業の仲介人・源之助だった。 「老中・松平忠長。その手の者を斬れとのことだ。証拠を握られたくないらしい」 「……くだらぬ」 影斬りは小さく吐き捨てた。だが、この仕事は彼自身の目的と重なっていた。松平忠長――彼こそが影斬りの一族を陥れた張本人なのだ。 「今夜で終わらせる」 男は立ち上がり、ゆっくりと店を出た。夜の帳が、彼の影を優しく包み込んでいった。 その夜、江戸城の奥に潜入した影斬りは、静かに廊下を進んでいった。番兵の目をすり抜け、松平忠長の寝所へと近づく。 ふと、背後に気配を感じた。 「……待っていたぞ」 松平忠長の護衛役、剣豪・神谷玄斎。齢五十を超えた老剣士ながら、その剣筋は未だ鋭く、無駄のない構えだった。 「まさかお前が生きていたとはな。影斬りよ」 「俺の名を知っているか」 「無論よ。かつてお前の父を斬ったのは、この神谷玄斎だからな」 影斬りの瞳が怒りに燃えた。 「ならば、お前もここで斬る」 二人の剣が交わる。鋭い刃音が静寂を破り、血の雨が降った。影斬りの剣は、神谷玄斎の胸を貫いていた。 「……見事だ」 玄斎は薄く笑い、そのまま崩れ落ちた。 影斬りは血の滴る刃を静かに振り払い、再び寝所へと歩を進めた。 松平忠長は、もはや逃げ場がないと悟った。 「頼む……見逃してくれ」 影斬りは無言のまま、剣を振り上げる。 「お前のような者がいる限り、江戸に夜明けは来ない」 刃が振り下ろされた。 夜が明ける頃、江戸の町に新たな噂が流れた。 「影斬りが、老中・松平忠長を斬ったらしい」 だが、その姿を見た者は誰もいなかった。ただ、一人の遊女・凛だけが、静かに涙を流していた。


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