秘めた夜、溶ける吐息

ジャンル:

官能小説
Hero Image

短編小説:秘めた夜、溶ける吐息

薄暗いラウンジ「ノクターン」は、都会の喧騒から切り離されたような静寂に包まれていた。アンバーの照明が磨き上げられたカウンターに柔らかく反射し、静かに流れるジャズが空間に溶け込んでいる。    カウンター席に腰掛けた美咲は、手元のグラスを見つめたまま微かに吐息を漏らした。琥珀色のウイスキーが揺れるたび、自分の心も同じように揺らいでいるのがわかった。 「お好みの味にはなりましたか?」  低く甘い声が耳元に届き、美咲は思わず顔を上げた。バーカウンター越しに立つバーテンダー、蓮が穏やかな微笑みを浮かべている。整った顔立ちと、計算されたように無駄のない動き。彼の存在そのものが、ここに訪れる客たちを魅了してやまない理由なのだろう。 「ええ…とても飲みやすくて、驚いてます」 「それはよかった。あなたの指先が少し震えていたから、緊張をほどけるようなものを選びました」  その言葉に美咲の心が跳ねた。自分でも気づかない仕草を見抜かれたことに戸惑いながらも、不思議と嫌悪感はなかった。むしろ、その洞察力に惹かれている。 「私、ここは初めてなんです。たまたま、通りがかって」 「偶然にしては、いい選択をされましたね。ノクターンは、隠れた場所にあるけれど、迷い込んだ人を拒むことはありません」  蓮の目がわずかに細められ、美咲を見つめる。その視線は、優しさと同時に、どこか危うさを秘めていた。 「でも、隠れた場所には…危険が潜んでいるかもしれない」  蓮の指先がカウンター越しに美咲のグラスに触れる。ほんのわずかな距離なのに、心臓が跳ねる音が聞こえそうだった。 「危険…なら、逃げた方がいいんでしょうか?」  冗談めかして問いかけた美咲に、蓮はゆっくりと首を振った。 「逃げるか、踏み込むかはあなた次第。でも――」  その瞬間、蓮がわずかに身を乗り出した。二人の距離は、わずか数センチ。 「ここで交わした約束は、外には持ち出せません」  その言葉が、肌を滑るように美咲の心に染み込んだ。まるで、見えない糸で絡め取られるような感覚。 「約束…?」  思わず問い返した美咲に、蓮は淡く微笑んだ。 「今夜は、名前も過去も、何もいらない。ただ、感じるだけでいい」  まるで甘い毒のように、美咲の思考が鈍くなる。グラスの中のウイスキーが、喉を滑り落ちた後の熱さが、身体の奥底まで届いていく。  いつの間にか、店内の音楽が切り替わっていた。ゆっくりとしたテンポのピアノが、密やかに空間を包む。  この場所で、この男と、この夜に――溺れてもいいのだろうか。  そんな問いが、心の奥底から浮かび上がる。 「もう一杯、いただけますか?」  そう告げた美咲の声は、かすかに震えていた。しかし、そこに迷いはなかった。  蓮は静かに微笑み、新たなグラスを手に取った。 「今夜だけの、特別なカクテルをお作りしましょう」  グラスの向こうで揺れる琥珀色の光が、静かに美咲を誘っていた。 ――夜は、まだ始まったばかりだ。


タグ