染橙の記憶

ジャンル:

日常
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第1章:酸味の朝

アキラは、日課として毎朝グレープフルーツジュースを飲む。それは母が残した唯一の習慣だった。母の記憶は、幼い頃の断片的なものばかりだが、グレープフルーツの鮮やかな黄色と酸っぱい香りだけは今も明確に残っている。 幼い頃、母は休日の朝に特別なグレープフルーツジュースを作ってくれた。キッチンで母が果実を手際よく切り分け、果汁を絞る様子をじっと見つめるアキラに、「一緒にやってみる?」と笑いながら声をかけたことを覚えている。そのときの母の笑顔は、窓から差し込む朝の陽射しに包まれ、とても温かかった。ジュースが出来上がると、母は「これはアキラ専用よ」と言いながら特別なグラスに注ぎ、必ず最初の一口をアキラに飲ませてくれた。その瞬間の酸っぱさとほのかな甘さが、母との何気ない幸せな時間を象徴していた。 母が亡くなったのは、アキラが10歳の時だった。応動いの医師だった父は家庭を顧みる余裕がなく、アキラは祖母とともにそばの田舎で静かな日々を過ごしていた。学校帰りにはよく野原を歩き、自然の中で母の面影を探すような気持ちで時間を過ごしていた。 ある朝、いつものようにグレープフルーツジュースを飲むと、なぜか味がずいぶん異なっていた。口に含むと、普段感じる爽やかな酸味が薄れ、代わりに少し苦味が際立っているようだった。消費期限を過ぎたわけでもない。それでも、その違和感はアキラの心に引っかかった。まるで、母が作ってくれた特別なジュースの記憶が遠のいていくような感覚だった。市販品のそれとは異なる何かが欠けているようで、彼の心に小さな喪失感をもたらした。 その日、アキラは駅前の古びたカフェで久しぶりに立ち寄った。そこで偶然出会ったのは大学時代の友人リナだった。リナは都会の生活に追われ、忙しさの中で自分を見失いかけていたという。数年前からキャリアを築くために努力を重ねてきたが、気づけば心の余裕を失い、都会の喧騒に疲れ果ててしまった。そんな中、かつて訪れたことのあるこの町を思い出し、「少しだけでも心を癒せたら」と思い立って訪れたのだ。 彼女が注文したのも偶然グレープフルーツジュースだった。 「この味、都会では特別に感じるんだよね」とリナは微笑んだ。その言葉に、アキラの中に幼い頃の思い出がよみがえった。母が作ったジュースの記憶と、リナが語る都会の生活のギャップが、彼の心を奇妙に揺さぶった。 アキラとリナは話を続け、次第に彼の中で忘れかけていた感情がゆっくりと芽生え始めた。母が注いでくれた愛情や日々の小さな楽しみを再び思い出すきっかけとなった。


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