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サスペンス著者:
語りの灯火
夕暮れが迫る住宅街を歩きながら、私は鋭い視線を感じていた。振り返っても誰もいないのに、その視線だけが消えない。足音が急に重くなり、心臓の鼓動が耳の奥を打ち続ける。
「あれ?」
自宅近くの角を曲がった瞬間、私は何とも言えない胸騒ぎを覚えた。玄関のポーチに、一通の封筒が落ちているのが見えたからだ。普段、手紙は郵便受けに投函されているのに、なぜポーチに直接? そして、差出人の欄は「不在通知」とだけ書かれている。宛名にも私の名前はなく、まるで空欄のように見える。奇妙な手紙を拾い上げると、ポストには何も入っていなかった。
家に入り、暗くなる前にリビングの灯りをつける。封を切った瞬間、薄い便箋が一枚、床に舞い落ちた。短い文面はまるで走り書きのようだった。
“気付いていますか。あなたはずっと見られている。”
意味のわからない警告文に寒気が走る。だが、その時いちばん不気味だったのは、警告そのものよりも、便箋の裏に付着した泥のような茶色い染みだった。私の家の周囲に、そんな泥は見当たらない。見知らぬ場所で汚れた紙が、何の前触れもなく投げ込まれたのだろうか。そこからは、得体の知れない悪意の気配が立ちのぼっているように思われた。いくら拭ってもそれは落ちず、濃いシミはまるで文字のようにも見えた。
翌日、仕事を終えて帰宅すると、昨日と同じ場所――ポーチの端にまた手紙が置かれていた。今度は宛名の欄に、黒々としたインクで私のフルネームが記されている。郵便受けを確認してもチラシすら入っていない。それどころか近所の家のポストには、普段通りの郵便物がささっているのが窓越しに見えた。あの不在通知を名乗る差出人は、どうやって私の名前と住所を知ったのだろうか。気味が悪い。恐る恐る封筒を開けると、今度は何も書かれていない白紙の便箋が一枚入っていた。だが、その紙には奇妙な折り目と、あの茶色いシミが微かに付着していた。私は何かの暗号ではないかと疑い、折り目を開いたり透かしたりしたが、何もわからないまま時間だけが過ぎていく。背後に誰かいるような、いやな空気感がずっとまとわりつく。
不安に駆られ、私は最寄りの警察署に封筒ごと持ち込んだ。担当した警察官は一応内容を確認したが、どこか気乗りしない様子だった。ストーカーの可能性があるかと尋ねても、「証拠になるものがない」と取り合ってくれない。もしも相手が手紙を送りつけるだけでは済まないような危険人物なら――その思いが頭を巡り、簡単に眠れない夜を過ごすことになった。
そして三日後の朝。玄関ドアを開けた私の目に、真っ赤なペンキの文字が飛び込んできた。家の外壁に大きく書かれた“在宅確認済”という文字。まるでこちらを嘲笑うかのように、スプレーで乱暴に塗りたくられている。突然、背後から静かに足音が近づいた。固まった体に、ひんやりと冷や汗が伝う。振り返ろうにも動けない。そのとき、背後の人物がポケットから何かを取り出す微かな音がした――。
「──お荷物、お届けに参りました」
振り向けば、そこにはいつもの配達員が立っている。どこか怪訝そうに私を見つめる彼の脇には、私宛の小包が抱えられていた。玄関に押し付けるように置かれた封筒も、配達員が投函するはずの伝票も、彼の手元からは見当たらない。では、あの“在宅確認済”の文字は一体誰が? そして、白紙の手紙は何を意味していたのか?
頭の中で疑問が渦を巻く中、私は唐突に、数日前に手にした薄い手紙を思い出した。――“気付いていますか。あなたはずっと見られている。” そう書かれていた警告。見えない何かが、確かに私の周囲を這い回っている。私は配達員の礼にもきちんと答えられないまま、ただ立ち尽くしていた。戸惑いと恐怖が入り混じる視界の片隅で、あの茶色いシミのような痕跡が、じわじわと広がっているように見えた。
私は玄関をそっと閉める。いつまた手紙が届くのか、それとも何か別の形で“あれ”が現れるのか――得体の知れない影に怯えながら、今日も玄関の覗き穴を何度も確かめてしまう。何も映らないその暗がりの向こう側に、誰かがいるような気がしてならないのだ。