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官能小説高層ビルのエレベーターは、深夜に静かに動きを止めた。薄暗い非常灯が二人の影を伸ばし、密閉された空間に息苦しい緊張感を漂わせている。 「こういう時に限って、会議資料を部下に渡しておくのを忘れるのよね。」 ヒロインの宮園佳織(みやぞのかおり)はため息をつき、足元のヒールを軽く鳴らした。いつも完璧なはずの彼女が、髪を乱し苛立ちを隠さない姿は初めてだった。 「部長が焦っているなんて珍しいですね。」 篠原駿(しのはらしゅん)は、軽口を叩きながらも心臓の鼓動を抑えきれなかった。佳織の横顔はどこか儚げで、彼の胸をざわつかせる。 「焦るわよ、こんな時間まで仕事したのも久しぶりだし。」 佳織は小さく笑った。その笑顔にはわずかな疲労感と、それ以上の孤独が滲んでいた。ふと、彼女は視線を窓に向ける。都会の夜景が遠く光るが、エレベーターの鏡面には二人の影だけが映っている。 「宮園さん、最近少しお疲れじゃないですか?」 駿の問いかけに、佳織は一瞬だけ動きを止めた。そして、笑みを消したまま彼を見つめる。 「あなたみたいな若い人にはわからないわよ。部下の生活も、上司の期待も全部背負ってると、いつの間にか自分の居場所がどこにもなくなる。」 その声には、彼女が普段見せる冷徹さがなかった。むしろ、脆さが滲んでいるように感じられた。 「俺だって、わかりますよ。」 思わず駿は声を強めた。自分でも驚くほど衝動的だったが、後悔はなかった。「ずっと尊敬してました。だけど、それ以上に…気付いたら、宮園さんばかり目で追ってた。」 佳織は驚いた表情で駿を見つめた。エレベーターの中の空気が変わるのを二人とも感じた。 「篠原くん、何を言っているの?」 声はかすかに震えている。それでも彼女は目を逸らさなかった。 「俺は、ただ…俺の尊敬が、他の感情に変わったんだって言いたいんです。」 彼は一歩前に出た。そして、エレベーターの非常灯の下で佳織の目を真っ直ぐ見つめる。 「あなたは完璧じゃなくていい。俺にとって、ただの『宮園佳織』でいてほしいんです。」 佳織は数秒間、息を止めたようだった。それから、薄く微笑んだ。 「本当に馬鹿ね。そんなこと言って、どうなるかわかってる?」 それは叱るような口調だったが、その瞳には暖かさが戻っていた。 駿は答えずに彼女に歩み寄る。そして、そっと手を伸ばした瞬間、エレベーターが突然動き出した。非常灯が消え、明るい照明が二人を照らす。 「…助かったわね。」 佳織はすぐに背筋を伸ばし、冷静さを取り戻す。「この話は忘れなさい。」 駿は黙って頷いたが、彼女の微かな笑みが、それを否定しているように見えた。 結末 数日後、駿のデスクに一通のメールが届いた。それは宮園佳織からだった。 「この先の会議資料、頼むわね。」 そこにはプロジェクトの進行についての指示が綴られていたが、最後の一文には、こう書かれていた。 「私の『弱さ』を知っているのは、あなただけ。」